本日の日記には通常以上の電波が混ざってますが、責任を取る気は無いないので覚悟の上、お読み下さい。

件の養鶏業者の自殺に関していろいろ考えたがよく分かんねー。被害者だの加害者だの天災だの人災だのって何よ。自分は世の中にはキラキラしたものがいっぱいあるんだよ教でも人権教でもないので命の尊さとかの優先順位が普通の人より低いのだけど、鯉ヘルペスの時も鳥インフルエンザの時も大量の鯉や鳥が死んでいるのに『人間の健康に影響は無いのか』という話ばっかりで『魚がかわいそう、鳥がかわいそう』という意見を聞かないのはおかしいような気がする(狂牛病の原因と言われた肉骨粉に対して『牛に牛を共食いさせるなんてかわいそう』という的外れな意見は聞いたけど)。
 野生の鳥だって死んでいるし、鯉も鶏も人為的に密集させられていたので集団感染しやすかったとはいえ、天災で死んだと言えるだろう。畜産農家の被害も大事だけど、動物の命が失われてるんじゃないの?かわいそうなんじゃないの?世の中キラキラ教や人権教の人達はなんで騒いでないの?人の命だけが特別製なんだなんて言うなよ?
そりゃ、鯉も鶏も最終的には殺すために(食用の為に)人間が養殖、飼育してるので感染してる可能性のある鳥を殺そうがどうしようが人間の自由かも知れないが、日本人全体としてそんなに割り切っているのだろうか。もうすでに『生きるために仕方なく殺して食べているんです、ごめんなさい』という建前すらなくて『美味いから食ってるだけで腹が膨れたら生ゴミで捨てますが何か?あー、ダイエットしなきゃ』という実態だけなのだろうか。
 人間が育てたから殺してもいいんですという理論は、世の中キラキラ教や人権教とは噛みあわないだろう。自分の買った商品は壊しても捨ててもいいじゃないか、自分達の育てた魚を、鳥を殺してもいいじゃないか、国家は国民を殺してもいいじゃないか、人は他人を、親は子供を殺してもいいじゃないか。お前らはどこまでOKなんですか。ここで人間が死ぬのは駄目だというのは、人権に関する決まり事を除けば、この場合の被支配者である人間に人間性とか個性とかの代替性の無さを感じるからだろう。でも、感知できない距離にある人間の個性なんて存在意義も存在しない意義も無いだろう。じゃあ、自分にとって有益でない個性の場合はどうだ。そんな個性に代替なんて必要かい。満員電車に乗り合わせた人間なんて邪魔なだけだろう。その邪魔者を下ろして代わりの誰かが乗せたところで問題は解決するかい。人間も動物も物質も、自分にとって生きてるほうが利益があれば生かす、殺したほうが有益なら殺す。命の尊さとか人権とかいう思い込みを捨てれば、それだけの事だろう。

・・・でも、お前らはやっぱり駄目だって言うんだろう?じゃあ、人間だけじゃなく他のやつにもそう言ってやってくれよ。インフルエンザで死んだ鶏や野生の鳥にも『かわいそう』って言ってやってくれよ。それがあんたら、まったり派の仕事ってやつだろう。そうしたら俺はそれを聞きながら『人間は自らが悪だと自覚すべきだ』って殺伐とするからさ。
人類は俺の知らない所で、どんどん生まれてどんどん死ぬべきだ。まぁ、そうなってるだろう。俺の知らない所で。